2015年3月23日月曜日

「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」におけるベネディクト・カンバーバッチの演技についての映画未開人の戯言

去る3月13日から公開となった、ベネディクト・カンバーバッチ主演「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」。
皆様はもうご覧になられましたでしょうか。
私はもう二回観ました!
あと一回は観ますよ!
アカデミー賞脚色賞受賞作品に相応しく、大変、大変よい映画ですので皆様こぞって映画館に行きましょう!

とまあ、いかにも頭悪そうなエクスクラメーションマークを散りばめたステマ(「ステ」てねえ)で終わってもよいのだが、この映画についてちと気になることがあったので、以下覚書程度に書いておきたい。
因みに映画内容に関するネタバレは「ほぼ」ないので未見の方にお読み頂いても大丈夫かとは思うが、神経質な方はご遠慮ください(ヤフオク風に)

公開後暫くしてから、本作品で主人公を演じるベネディクトについて、「素のベネディクトが垣間見えて」「他の役の演技が重なって」演技にノレなかった、或いはもっときつく興醒めした、という意見をツイッターで散見するようになった。
これも好きな役者をクローズアップして見守り続けた「副作用」なのかな、的感想もちらほらと見かける。

このことに関して自分の考えをまとまりもないままだらだら書いてみたいのだけど、その前に前置きしておかねばならないことがある。
何度も書くことではあるが、従来私は映画もドラマも大嫌いで、これらを観始めたのはほんの2年くらい前からであり、それ以前の作品はほぼ何も観ていない(「風と共に去りぬ」等といった所謂古典的作品は除く)という謂わば素養ゼロの人間である。
なので、これから書くゴタクはこのような未開人の意見であることをご承知されたい。

という前置きはさておき、本題に移る。

そもそも役者の「素」とはなんだろうか。
レッドカーペットで見せる笑顔?
ネットで流れてくるスナップやエピソード?
それを「素」と名付けるのであれば、まずそれは本当の意味での「素」なのかと問う必要があろう。
例えばベネディクトがヴァルカンサインができぬほどの不器用でパーティに出たら食べ物を持ち帰る用のタッパーを持って来たりする庶民派(?)で、インタビューで果物を出されたら必ず手を洗う育ちの良いおぼっちゃんである、というエピソード(一応みな本当らしい)は、本当に彼の「素」を表しているものなのだろうか?
純朴なおぼっちゃんに見せかける巧妙なイメージ操作の結果かも?

仮にそれを「素」と名付けるとして、それが演技に透けてみえること、そのこと「自体」が悪いことなのだろうか。
確かに透けた素が役とミスマッチであれば、それは失敗であろう。
しかしその素がぴったりとマッチしていたら?
それでも役者としては失格?
役に嵌るからということで敢えて素を出す演技はタブーなのか?

あと、生身の人間が演じる以上、表情筋や声は変えようもない。
もしその部分まで含めて素、と言っているのであれば、それはいかにも酷だなあと思わざるを得ない。

次に、先の「素」と話は重なるが「他役が重なる」ことについて考えてみたい。

ツイッター論者の方のなかには「フランケンシュタインと重なって見えた」と仰る方がおられて、そんな雰囲気は欠片も察知できなかった未開人はやはり慧眼者は違うものだと感じ入ったのであったが、仮にそうだったとして、それは果たしていけないことなのだろうか。

演者が演技の瞬間瞬間にある種自分のパターンを織り込むことは必然ではないのだろうか。
監督が自作の出演者を決める際に考慮するイメージというのは、役者の素であり上記パターンの複合体ではないのだろうか。

「そんなことは分かっている。勿論いけなくはない。演技は素晴らしい。
けれど、よい悪いではなく、彼及び彼の作品を見過ぎたこの私が色々なものを投影してしまうのだ」

なるほど。
しかしそのことで「興醒め」までしてしまうようでは、これからの彼の作品を見続けることはアイドルの挙動を眺める楽しみのみで終わってしまうことになってしまわないか、それはいかにも残念ではないかと思うのである。

これに関して、投影が気になるというのはやはりベネディクトの演技が未熟だからだ、というご意見を見た。
これは(実感はできずとも)確かにそのとおりかもしれない、と思う。
多分圧倒的な演技を目の前にすると、素がどうの過去の役がどうの、といった雑念は吹っ飛んでしまうであろう、ということはよく理解できる。
(しかし、その「吹っ飛んでしまう」演技こそが至高の演技なのか、ということについては疑問なしとしない。そういう神憑ったもの以外にも善き演技の道というのはありそうな気がするのだが…)

ここで未開人の感想を書いておきたい。
未開人には、少なくとも素(とされている)ベネディクトも、過去の役どころベネディクトも出現はせず、ただひたすら映画の織り成す世界のなかに引き込まれた。
これは私が、圧倒的な演技で「ない」にも拘らず安直に感動してしまう映画未開人であることに加え、好きな役者であるから「ゆえに」そういった雑念に引き摺られまいぞというストッパーを心の中で無意識にかけていたからだと思われる。
(このことは自覚していなかったが、上意見を見るに至りそうであったと気づいた)
しかしストッパー自体は不自然なものなので、次回は(できるものなら)その手の用心をせずに観たいと思う。

(余談だが、「映画の世界にひきこまれた」と書いたがただ一点、WWⅡの戦争描写にはそれこそ「興醒め」させられた。それこそお手軽なドキュメンタリー番組ですか?というくらいおざなりで、他の演出が見事であるだけに余計に悪い意味で際立ったと思う。
これは恐らく、暗号解読メンバーが電波や紙の上の戦争のみに従事し、結局リアルな戦争を体感することがなかったことの暗示なのかなとも思ったが、それにしてもなあ…であった)

とまれ、今回の皆さんのご意見ご感想を眺め、未開人には未開人なりの、そう、空から降ってきたコカコーラ瓶がものすごく素晴らしいものに見えるというくらいのアドバンテージはあるものだなと思った。
少なくともこの手の「知の悲しみ」的なものは私にはまだ体得できない。
ただ、その「知」の中身も検討を要するものがあるのでは?と思ったのもまた事実である。
役者の「素」とは、果たして本当に「素」なのだろうか?
生身の役者が様々な役を演じることの可能性、限界?
演技がパターン化することのメリット・デメリット?

未開人にはわからないことだらけである。
しかし、わからないことがあるというのはとてもたのしいものだ。
これからもわからないことはわからないなりに、わかればわかったでわーいとよろこびつついろんなさくひんをみていきたいとおもいました。

(結論が思いつかないので小学生のふりをして遁走した一例)

1 件のコメント:

  1. 色々な方の感想があるものだなあ、と思いつつ拝読しましたー。
    そして、「他のキャラと似て見える」とか「素に近い」とか思われた方が、実はベネディクトの演技の微妙な差を見分けられなかったという可能性もあるのでは。

    彼は見た目の造形に特徴がありすぎて、強い印象が残りやすい役者さんですし、映画ですから様々なバリエーションを撮った中から監督が編集であの決定版にまとめています。まったく別バージョンの演技がいくつもあったことでしょう。

    私も結論はないんですけど、実にカンバーバッチさん良い仕事してたと思うです。うん。

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