2013年4月8日月曜日

古代ローマ1万5000キロの旅



セステルティウス貨。
元々は銀貨だったが、帝政ローマ期に青銅貨となり、それに従い流通量も飛躍的に増えた。
その価値は4アスという。
といっても現代の我々には何が何だかだが、一塊のパンだと2斤、ワインだと1/2~1リットル、娼婦だと2人(!)を贖うことができるのだそうだ。
(当然ながら品質、時代によって価値は変遷するが)
また、表面積が比較的大きいが故に時の皇帝の肖像画が彫刻されることが多く、首都ローマから遠く離れた属州に皇帝の威光を知らしめる宣伝としての役割も担ったといわれる。

さて、本書の舞台は五賢帝の一人、トラヤヌス帝の御代である。
言うまでもなく、ローマ帝国の版図が最大となった時期だ。
この栄えある御代の或る日、鋳造所で少しひびが入ったセステルティウス貨が産み落とされた。
この貨幣はその後、広大なローマ帝国を文字通り流転していくことになる。
我々(現代からのタイムトラベラー)はこの貨幣と運命を共にし旅をする…
本書はかような内容の「物語」である。

この貨幣を手にする人々は多岐に亘る。
上流階級の淑女に百人隊長、物乞い、裕福な商人、賭博師。
我等がセステルティウスは貨幣としての性質にあくまで忠実に、様々な人々の手から手と渡っていく。
ここまでは我々が現在使用している通貨の事情と何ら変わることはない。

しかしその流通範囲はなんと広汎に亘ることであろうか。
北はブリタニア(英国)にモゴンティアクム(ドイツ)、西はヒスパニア(スペイン、ポルトガル)、南はカルタゴ(チュニジア、リビア)にテーバエ(エジプト)、東は遠くカラクス(インド)にまでその旅路は及ぶ。
(本書中には更に遠くベトナムのメコンデルタでセステルティウス貨が発見されたという記述もある)
現在のユーロと比べても遜色ないほど、いやそれを遙かに凌駕するスケールでこの貨幣は「動き回る」蓋然性を有している。
ただ漠然と「ローマの最大版図」と題された色付けされた地図を眺めているよりもよっぽど帝国の広がりを実感できる趣向である。

そして、この貨幣に纏わるエピソードや事物の数々-つまりそれは即ち古代ローマの森羅万象なのだが-が実に微に入り細に入り鮮やかに描かれている。
ローマの真髄「街道」に海運といったインフラ、庶民から富裕層に至る衣食住の有様、壮麗な建築の数々に都市計画まで、「過」は(全く気にならぬが)あったとしても「不足」は全く感じられない。
前作『古代ローマ人の24時間』も佳作であったが、やはりターゲットを「ローマ市の」24時間に絞っているだけあってすんなり纏まっているとはいえ物足りなさを感じた。
本書はその物足りなさをカヴァーして余りある内容であり、美味しいご馳走(そう、例えば雌豚の乳房やらヤマネのローストのような、ね)をお腹いっぱい食べたが如くの満足感を得ることができる。


但し、本書の魅力はそれに留まらない。
あくまでも史実に裏づけを求めつつも、所謂「読み物」としての楽しみ、つまりフィクションの愉悦という要素も十分に詰まっている。
筆者が最も食い入るようにして読んだのはキルクス・マクシムスでの戦車競争の段である。
ここではかの有名な『ベン・ハー』を引き合いに出しつつ、ここは違う、あそこも史実とはちと違うなどと上手く「ダメだし」をしつつ、不人気馬にあり金を注ぎ込んだ架空の賭博師を登場させ息詰まるレースを展開してみせる。
その語り口がまた巧みで、それこそ遥か昔に『ベン・ハー』を読んだときのようなどきどきわくわく感が蘇り気づけばこのクダリ、あっという間に読み終えていた。
また、ライン川沿いで繰り広げられる「蛮族」との戦いの描写もまた血湧き肉躍るもので、ついつい子供時分に夢中になった冒険譚の如く引き込まれてしまったことであった。


更に、普通に考えればフィクションそのものである筈の旅中で出会う人物たちにも、多少なりとも史実の裏づけがされているのが面白い。
例えば、DVにあけくれる夫を亡き者にせんと密かに呪いを捧げる若き女性。
彼女の存在は、古い泉跡から発見された数多の呪術的人形の一つから明らかとなる。
その他にも頭部腫瘍の外科手術を受けた男の子、遠くブリタニアの更に僻地、ヴィンドランダに妻と子供連れで赴任していたローマ司令官など、発掘や史料、碑文で裏打ちされ実際に「そこにいた」人たちの活写が本書の記述に更なる精彩を添えていることは間違いない。

これだけてんこもりの内容故全608頁という大書ではあるが、もし東にこのボリュームに恐れをなしている方がおられたならば、頭をはたいていいから黙って買え!と一喝したいほどのお勧め本である。
また、西に値段(3360円)に躊躇している方がおられたならば、この内容でこのボリュームで3360円は格安だこのドケチ、黙ってとっとと買え!とどやしつけたいほどのお勧め本である。
兎に角、この本、買いです。

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