2013年4月18日木曜日

シャーロック・ホームズの愉しみ方



最近、ドラマ「Sherlock」ブームのせいか、あちこちでホームズ関連の本、ムック、雑誌を見かけるようになった。
(そんなブームじゃないよと仰る方もいるかもしれないが、長年のファンから見れば十分にブームなのである。決してSherlockフリークの贔屓目などではない。ええ断じて)
それらを見かけ次第、いや積極的に情報を仕入れ次第買ってしまうというのは悲しいファンの性というものである。
お陰で今期は何冊関連書籍を買ったやら知れぬ。
(その中にはSherlockの「中の人」、ベネディクト・カンバーバッチやマーティン・フリーマンを特集した映画系雑誌!も多く含まれているのだが)
ああ踊らされているわ、と嘆息しつつ、戦利品を前ににやける気持ち悪くも充実した毎日を送っている次第である。にや。
雑誌に至っては余りに増えすぎたので、必要記事をピックアップしスクラップブック(!)を作って保管している体たらくである。
そこで所謂「自炊」に走らずあくまでもアナログに徹するのはやはり昭和の人間の所業である。
そも必要な機材も知識も持ち合わせていないということもあるが。

しかしまあ、こんなマメなこと、中高時分でもしたことがない。
あの頃やったのはせいぜいが雑誌の切抜きを透明下敷に挟み込んだくらいのものである。
それから幾星霜、まさか己が自作のスクラップブックを眺めてにやにやしている気持ち悪いおばちゃんに成り下がっていようとは思いもよらぬことであった。
この歳になって一体何やらせてくれるねんSherlock。

閑話休題。
本日ご紹介する上掲『シャーロック・ホームズの愉しみ方』はブームよりも随分前に発売されているものであるが、Amazonの「この本を買っている人はこれも」詐欺(長い)に引っ掛かって購入したものである。
正直、軽いタイトル(失礼)と光文社新書(失礼)という点から気楽に読めるホームズあんちょこ本だと思っていた。
ところがどっこい大間違い。
よい意味でいろいろ期待?を裏切られた一冊であった。

という訳で、ざっと本書の構成を紹介してみよう。
一章、二章には、有名作家や有名シャーロッキアン等の手によるホームズアンソロジーの訳出がずらりと並ぶ。
三章はかの「バリツ」やら同時代に英国に留学していた漱石やらが登場し、日本とホームズとの関連が虚実織り交ぜて論じられる。
最後の四章では、数多邦訳されたホームズ譚の「誤訳」話から飛躍し、プリンス・オブ・ウェールズやチャーチルにまで話が及ぶ。
なんだなんだ、この知的遊戯ごった煮とでもいいたくなるコンテンツの数々は。
俄然興味が湧かれた貴方は私のよき友人である。
なので是非以下もお読みあられたい。

まず冒頭、ロナルド・A・ノックスという司祭兼?探偵小説家の「シャーロック・ホームズ文献の研究」を読んだとき、私は心底大笑いした。
…といいたいところだが、生憎読んでいたのが昼休みの職場だったので必死に笑いを堪えた。

だってですね。
まず彼は、ホームズが報酬を滅多に受け取らない(厳密に言うと違うが)ことに焦点を当て、彼を職業的ソフィストから蛇蝎の如く嫌われたソクラテスに擬えたあとでこう述べる。

「…ワトソンの役割は何かというと、彼はギリシャ悲劇のコロス(合唱隊)なのだ。ワトソンは堅実穏当中正なふつうの市民の代表である。彼の凡庸さは主役が脚光を浴びるにつれて引き立つ(後略)」

そして、その根拠を「まだらの紐」と『アガメムノン』の一節の対比によって示そうとする。(どんなピックアップや)

ホームズ「ベッドは動かせなかった。通風孔とロープに対する位置が変えられないようにしてあったのだ。あれが呼び鈴用でないことは確かだ」
ワトソン「ホームズ、君の言うことがおぼろげながら分かってきたような気がする。恐るべき巧妙な犯罪がまさに行われようとしているのじゃないか?」

カッサンドラ「雄牛を雌牛に近づくるなかれ。黒き角の獣、たくらみの網にかかりて屠られ、湯に斃れん。まがまがしき大釜を恐れよ」
コロス「我らよく予言を解するにあらねど、窺い知る、恐るべし禍の差し迫りたるを」

長々と引用して申し訳ないが、けれどここだけはどうしても書いておきたかったのでお許し願いたい。
どうですかにやけるでしょう。このめくるめくコントラストに至極真面目な語り口調。

一章の御大方のホームズ「論」はこの調子で厳かに粛々と進められていく。
(最後の「ワトソンは女だった」説論者のものは別にして)
章立てが変わって二章の「意外な愛読者たち」には、かのT.S.エリオットや高名な文芸評論家が登場する。
その殆ど(4本のうち3本、かな)が「ホームズ譚は陳腐なんだけど偉大な『お話』だよね」という論調であり、んもう素直じゃないんだから、素直に好きってお言いよと肩の一つもどやしつけたくなったことであった。
まあそうとでも書かぬとこの「御大」方、己の矜持を保てぬのであろうが。

三章では日本のシャーロッキアンなら知らぬ人はいないであろう「バリツ」問題が取り上げられる。
ここからやっと筆者の著述となるのだが(一章、二章は訳出)、あくまでホームズを実在の人物として取り扱い「研究」する「シャーロッキアーナ」(シャーロッキアンに非ず)の顰みに倣ったのであろうか、ホームズはかの嘉納治五郎から直接「柔道」の薫陶を受けたとし、出会いの場面などを克明に描いてみせる。
成る程、嘉納先生仕込みであれば滝からの生還もお手の物であったであろう。
(となれば、ドラマSherlock(またかといわないで)のシリーズ2エピソード1「ベルグレービアの醜聞」中、アイリーンにやられたシャーロックが自室で寝込んでいるシーンがあるのだが、そのベッドの上に掲げられていた「お免状」のようなものはひょっとしたら嘉納先生の直筆によるものなのかしらん?などと妄想も膨らむのも楽しい)
また、漱石との出会いも取り上げられている(これは山田風太郎の小説の引用であるが)
虚実ない交ぜ(いや勿論全てが「虚」なのだが)のホームズと日本の繋がり話は日本人シャーロッキアンであれば楽しめること間違いなしである。

四章は所謂「誤訳」話である。
グレグスンとレストレードの間柄をホームズはこう評す。
「They are as jealous as a pair of professional beauties」
さてこのprofessional beautiesとは何ぞや?怪しい商売の女?

そしてまたモリアーティがarmy coachであった、いう記述も見える。
軍人相手の家庭教師、と訳されている場合が多いけれどそれは本当か?

いずれも「大間違いのコンコンチキ」であると筆者はいう。
それがいかにコンコンチキであるかを分かり易く説き、更にここからチャーチルや皇太子殿下の話へと飛躍する巧みな筆運びは目にも鮮やかであった。
この章は本書の白眉であろう。

しかし、いかんせんこのお方、ホームズ譚の諸現行訳に関しては評が辛い。
有り体に言うとかなり辛辣な言葉でこき下ろしている。
(あの延原訳までも批判されているには驚いた。まあ「一番ましな訳」とは評されてはいるが)
さすれば先ず隗より、と思うのは意地悪であろうか。
厭味でも何でもなく、この方の訳出ホームズであれば是非読んでみたいと思うのだが…


2 件のコメント:

  1. ご紹介いただきありがとうございます。
    「先ず隗より」は、決して意地悪ではありません。正典の訳を出したくて売り込んでいるのですが、むつかしい。やれやれ。本書にも「乃公出でずんば……」と書いています。僕が訳するなら、延原謙氏の日本語をお手本にして改良します。いわゆる新訳は前の間違いを踏襲しているのがよくない。「翻訳はだんだんよくなる法華の太鼓でなければならない」とI田先生もおっしゃっているのに。

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  2. 植村様:コメント誠にありがとうございました。まさかご著者様直々にコメントを頂けるとは夢にも思わず、嬉しくも恐縮頻りでございます…お気に障る点などありましたならばどうぞお許しくださいませ。
    ご訳出をお考えとの由、読み落としておりまして大変失礼致しました。それはもう刊行の暁には飛びついて読ませて頂きたいと思います。最近原書をぼつぼつと読み始めているのですが如何せん英語力の乏しさ故、結局は過去に読んだ翻訳に引き摺られている次第です。
    「だんだんよくなる法華の太鼓」、いい言葉ですね。翻訳に限らずすべからく前人の業績がある分野、学問に携わる人間は胸に刻むべき至言だと思います。

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