2014年10月6日月曜日

Richard Ⅲ,Trafalgar Studios (4th,Sep 2014 matinee)



トラファルガー・スタジオ。
キャパ300程度?の小さな劇場だが、ここで今年(2014年)7月1日~9月27日まで、あの、そうあのマーティン・フリーマン主演の「リチャードⅢ世」が上演されていた。
今回の旅行の主目的は、この芝居を見に来ることだったといっても過言ではない。




私の席はB列(2列目)のど真ん中。
チケットを引き取ったときに、お兄さんに
「知ってると思うけど、血しぶき浴びるからね」
と警告を頂く。
おうよ、望むところだ。

以下、感想や解説(と言うほどのものはないが)を思いつくがままに羅列していこうと思う。
この記事をUPする時点で公演は終了しているので配慮の必要もないかと思うが、もしスクリーニングまで一切のネタバレを見たくない!とお思いの方がいらっしゃるならばここでブラウザをお閉じ頂けると幸いである。
(ただ、先日Trafalgar Studiosのスタッフさんが「ない」と明言されてはおりましたなあ…)

あともうひとつ、私はお芝居超初心者である。
どれくらい超初心者かといえば、
・シェイクスピア芝居を生で観るのはこれが初めて
・芝居自体生涯3回しか観ていない(NTLive除く)
というくらいである。
或る意味、初シェイクスピア芝居を本場イギリスで観たというのは多とすべきなのかも知れないが…

という訳で、以下の感想だか解説(というのもおこがましいが)は、その筋の方がご覧になれば的外れだわいい加減だわ、な類のものであると思われる。

あと、私はこのお芝居を一度しか観ていない。
(本当は複数回観たかったのだが、母連れの身ではそうもいかず)
故に色々記憶違いも多かろうと思う。
というか、デフォルトで間違っている自信がある(きっぱり)
もし指摘してやろうという親切な向きがあられたらメールやコメントを頂戴できると幸いです。

・ステージ構成。
真ん中に長い机が縦に二本配されている。
机上にはネームプレート、そして昔ながらのダイヤル式電話。
上手側にはブラウン管テレビにタイプライター。
壁には何故かトイレの扉も。
更に上手奥には椅子が配されており、先の王妃マーガレット妃が座っている。
(これは劇開始前から)
その上には王の肖像。
劇が始まる際にはヘンリー6世の肖像がかかっていたが、黄色いペンキでバッテンがついていた。
その後この肖像はエドワード4世、リチャード3世と挿げ替えられる。
下手壁にはエレベーター。
舞台奥にも階段状の客席が設えられており、客席で舞台を挟むようなスタイルになっている。

・演出家ジェレミー・ロイド氏は、本芝居の時代背景を1970年代とした。
(物語の時代そのものではなく、あくまで舞台小道具や衣装を同時代のものとしたのである)
それは何故かというと、この戯曲のオリジナルの時代である15世紀後半、ヨーク家とランカスター家がいがみ合っていた一触即発の時代背景(所謂「不満の冬」)が、右派と左派がするどく対立していた1970年代当時(この頃イギリスではウィルソン政権末期で、後日判明したところによるとクーデタの危機も存在したという)と似ていたから、という理由に拠るものらしい。

しかし正直、この試みは「シェイクスピアの役者さんが電話つかってる面白ーい」とかいう異化効果以外の何ももたらさなかったのではないかと思う。
きな臭い時代はいつの世も同じだし、敢えて1970年代という時代に的を絞った意図はいまひとつ掴みきれなかった。
ロイド氏は「若い人にもシェイクスピアを」というコンセプトをお持ちのようで、それは大変に素晴らしいことだと思うのだが、その路線を徹底させるのであればいっそ今この時、21世紀の時代に背景を設定してもよかったのではないかと思う。

・冒頭のあまりにも有名なリチャード3世(このときはまだグロスター公だが)の「我らが不満の冬…」の長台詞は、まず今のヨーク家の悦ばしい現状を謳うが、後半がらっとトーンを替え、「しかし私ときたら…」という己への呪詛、そしてヴィランとなる決意を述べて終わる。
普通、この台詞は全て独白であるが、本舞台では前半部分がヨークの輩の中での演説調となり(なので取り巻きから拍手喝采が起きたりする)、後半の呪詛以降のみが独白、というスタイルで語られていた。
この演出によりリチャードの外と内の顔の対比を鮮烈に印象付けられ、のっけから引き込まれた。

・前王の息子の妻、アンの呪いシーンは潔いほどにばっさりカットされており、テンポのよさを際立たせていた。
求婚の場面、おどけつつ軽快に、時に声を張り上げ懇請するリチャードの姿は道化師を彷彿とさせた。
脚本を読んで感じた切実さ、悲愴さ(勿論偽りの、ではあるが)といった「真面目な感情」は感じられなかったが、そもかような情緒はオミットされており、あくまでテンポの良さに重心が置かれた演出であったと思う。
それは恰も掛け合い漫才のようであった。
(勿論、原脚本に於いても、この場面の後半は意気投合?した2人が恰も漫才の如く台詞を飛ばし合うのだけど)
アンが去った後のリチャードの「はっはーん」とバカにした演技は流石マーティン、板についていた。

・リチャードの兄、クラレンスは生きている金魚の入った四角い水槽のなかに首をつっこまれ、しばらくもがいた後おとなしくなったところで首を掻っ切られる
(このとき水が血で赤くなる)
水槽はつまり、クラレンスが見た悪夢(海の底に引き摺りこまれ、数々のおぞましいものを見、遂には三途の川を渡る)を示唆しているのであろう。
視覚的には面白いアイディアだったが、正直さほどの見せ場とも思えず些か冗長だったと思う。
折角のテンポの良さをどうしてここで断ち切るのかという意図はよく分からなかった。
(その後、動物愛護協会の抗議を受け、金魚の出番はなくなった模様)

・クラレンスを弑すのは原作の名もなき殺し屋2名ではなく、リチャード側近のティレルとケイツビーである。
登場人物を絞るアイディアはいいが、もともと卑賤の者を想定した台詞がこの2人にしっくりきていたかは微妙だ。

・エリザベスやエドワード4世、エリザベスの弟のリヴァースのシーンは特に見るべきものはなかったように思う。
瀕死のエドワード4世が酸素マスクをしていたのにはくすっとさせられたが。
リヴァースは、キャデラック乗り回してそうなアメリカ成金のアホのぼんぼんといった風情で(偏見です)、リチャードが苛立ち喧嘩を売るもむべなるかな、と思わせられ、或る意味説得力ある造形であった。

・マーガレットはもう少し迫力があってもいいと感じられた。
あの恰好(ちょっとそこまで買い物に来た感じ)の舞台衣装も相俟って、親しみやすいおばあちゃんといった風情であった。
呪う際には有線マイクが登場する。
暗転した舞台でマイク片手に呪詛の言葉を吐き散らすマーガレットは、さながら演歌歌手のようであった(ごめん)
まあ、このカジュアルを旨としている(と思われる)舞台で、突然凄惨なマーガレットが登場しても浮いてしまうのだろうが。

・ヨーク公妃もあまり印象に残らず。
出番の少なさも相俟って正直演技を覚えていない。

・ヘイスティングスの演技はしっくりきた。
軽率なおいちゃんの軽率ぶりをよく表現していたと思う。

・二人の王子かわいい。特にヨークかわいい。
ヴィジュアルだけではなく、演技も実に達者であった。
しかしながら、ヨークのおさるの演技は少々中途半端と思えた。
徹底的に笑いを取りにきているのか、無邪気におどける姿に後の悲劇を予感させしんみりさせるのか。
どうも意図が分かりかねた。

・バッキンガム達に王にと乞われ、敬虔に固辞する茶番劇を演じるシーンのリチャードは秀逸だった。
表情、声色、絶妙な間のとり方。
やはりこの人の持ち味はコミカルな場面でこそ生きる。

・幕間は15分くらいだったか。
どうでもいいけど、ここで売られたアイス(大4.5£、小3£)は劇場価格とはいえ高かったな。
(母が食べたいいうので買いましたが)
幕間でも再びプラカードで「血ぃ飛ぶで」のアナウンスあり。

・リチャードに二人の王子を殺せ、と命じられるティレルは歌うように、ではなく本当に歌って返事をする。
そのあとのリチャードの台詞「甘い調べを歌いおるわ」にひっかけているのだろうが、ちょっと狙いすぎて外した感があった。

・リチャードがアンを殺そうとするシーン、
「(アンが)瀕死の病気だと触れ回れ」
と命じるのをアン本人が後ろで聞いており、ひいいと青ざめているのは面白かった。
そして、アンに近づきおでこに手を当ててうーん、熱ないなあと残念そうにするリチャードの身ぶり、表情がコミカルで「ノレた」。

・その後リチャードはアンをなんと御自ら!縊り殺す。
凶器はダイヤル電話のコード。
このシーンも正直冗長だなあと思ったが、マーティンリチャードが大柄なアンを殺すのはヴィジュアル的になかなか大変そうだったので、ま、この場合時間がかかるのは説得力はあるわな、と思った次第。
絞殺のあいだ、後ろできーっ、きーっと開いたり閉まったりしているエレベータードアがリチャードの焦りを代弁しているかのようであった。

・王女を巡るリチャードとエリザベスのやりとり、今までのリズム感とは異なりだれた印象。
私がこのエリザベスさんの演技にしっくりこないものを感じていたからかもしれないが。

・リッチモンドはいかにも機械的だなと思ったけど、これは演出の狙いなのか本人のナチュラルな演技なのかは演劇ビギナーには分からず。
わざと機械的なのであればこれはこれでありだな、いや寧ろ非常に理解できるなと思った。
リッチモンドはリチャードの言動を際立たせるための対比者、光に対する「影」に過ぎないのだから。
(この光と影のメタファーは勿論逆にすることも可能だが、この場合は「本演劇が誰にスポットライトを当てているのか」という意味でかような表現を使っている。念のため)

・亡霊たちの悪夢を見て飛び起きたリチャードの長台詞、「リチャードはリチャードを愛している」云々は息せき切り、次の言葉が出てくるのももどかしいというようにいかにも性急に語られた。
そこには焦りはあるものの、苦悩も韜晦もない(と見える)。
ここでの主眼はあくまで「疾走感」にあると感じた。

・戦闘前の演説、原戯曲ではリッチモンド⇒リチャードの順で長口上が続くのだが、本公演では台詞は切り分けられリッチモンド⇒リチャード⇒リッチモンド…と目まぐるしく切り替わる掛け合いとして構成されており、両者の違い(片や明るい励まし、片や脅し)の対照性がくっきり浮かび上がる趣向であった。
リズミカルで理解しやすい改変であったと思う。

・戦闘のシーン、リチャードの敵が亡霊と成り代わり、呪詛の台詞を吐くという構成は面白かった。リチャ3演出的にはスタンダードなのかな?

・余りにも有名な「A horse!」のシーン。
その台詞はリッチモンドに銃をつきつけられた状態で発せられる。
なので、リチャードは「…A horse…?」と一瞬躊躇う。
躊躇うというよりは、
「馬…?いや、馬って俺何言うてんねん」
という吉本新喜劇的「ボケ」、と言う方がしっくりきた。
しかしそのあとは雄々しく、いややけっぱちというのが正しいかもしれぬが、
「A horse!(以下略)」
と大音声で発しておられた。
ここで何かまたワンクッションあるのかと思いきや、リッチモンドは躊躇いなく引き金を引き、リチャードは実にあっさりと(血を流すこともなく)こと切れる。
ええ、これで終わりなの?ほんとに?
と暫く茫然としたほど、それはあっけない幕切れだった。
このシーンで「滑稽」という言葉が浮かぶとは思いもよらなかったが、マーティンリチャードのそれは当に滑稽だった。
(褒め言葉ですよ一応)
王でも死ぬときゃこんなもんよ、というアイロニーをも含ませていた、というのは深読みしすぎかしらん。

・ラストシーンのリッチモンドの演説はテレビカメラに向かってなされる。
これは、あくまで近視眼的にそこに「居る」人たちにしか語らなかった(そして失敗した)リチャードとは対照的に、不特定多数に向け語ることで「この島」の統治者たる正当性をアピールしているように思えた。
…というのはあくまで個人的な「印象論」。
この印象の妥当性をしっかりと論じるためには、同じようにカメラを用いた演出の例などを持ち出してこねばなるまい。
詳しくは後述する。

(と思っていたのだが、NT Liveの「ハムレット」にてフォーティンブラスがテレビカメラやマイクに向かって台詞を語る、という演出があったので、あながちこの印象論、間違ってはないのかもと感じた次第である)

・本リチャード3世全体の印象を一言でいうと「疾走感」である。
脚本の大胆なカット、登場人物の絞り込み、ミニマムな演出、メリハリの利いた(時に破綻していたが)ユーモアといった工夫は、全てこの作品の疾走感をこそ高めるためになされているのでは、と思われた。
リチャードもまた、「ひたすら王座に向けてまっしぐらに突っ走り、そのまま突っ走り抜けてしまった男」として描かれていた。
軽快さ、勢い、コミカルな言動。
この演出に於いて、マーティンという配役は実に御誂え向きであったと思う。
シェイクスピア歴史劇とは重々しくあるべきだ、とかいう原理主義の方々には向かなかろうが、若い人たちにシェイクスピアに親しんでほしいというロイド氏の意図は大当たりだったと思う。
その狙いは、演劇ビギナーである私にも非常にしっくりくるものであった。

けれど、やはり原作を読みこんだ上で臨んだ身としては物足りないな、と思ったことも事実だ。
本舞台は終始一貫してスムーズで、余りにスムーズで、抽象的な言葉ではあるが「ひっかかり」というものを全く感じることができなかった。
きつい言い方になるが、キャッチーであることに拘り過ぎて、結局シェイクスピア入門編としての演劇で終わってしまっているのではあるまいか、という疑念を禁じ得なかった。

あと、正直に言うと、マーティンの演技を見て
「これが私の知っているマーティンなの??」
という驚きは「なかった」。
つまり、私にとっての未知で新しいマーティンを見ることはできなかった。
色々感心したり納得したり魅せられたりしたが、そのポイントはあくまで既知のマーティンの演技の延長線上にあるものだった。
更に具体的にいうと、「夜警」のレンブラントの亜流ではないか?という観点から抜け出すことができなかった。
知っているマーティンを「生で」観た、という事実は無論素晴らしいことだし昂奮したのだが、欲張りな私は自分の知らなかったマーティンをも観たかったなあという心残りを抱え、劇場を後にしたのであった。


(以下余談)※このゴタク自体余談だろ、とか言わない。

この感想(のようなもの)を書いていてふと思ったのだが、例えば演劇のとあるシーンにとあるメタファーが隠れている、という「主張」はどのようになされるべきなのであろうか。

いったい、ある作品について仕組まれているメタファー(と自分が思うところのもの)を論証し語る(騙る)場合には、他の劇演出等に見られる類似例、或いは他分野(小説、神話)のそれを複数、適切な形で引用、紹介し、本作品に於いても同様に用いられていると看做すべき根拠を論じるべき、と思惟するものである。

更にその主張の妥当性を精査する場合には、反例を提示し、今回の演出ではこの反例を適応すべきでない根拠に至るまでを論じるのが望ましいと考える。
(まあそれは私がなんちゃって法学脳だからかもしれませんが)

そも前例がありません、という場合は(この時点でその結論は眉唾ものだと捉えられても仕方なかろうが)同じ劇の他のシーンに散りばめられた伏線を探し、このメタファーを支えるためにこれらの伏線がこのように組み立てられているんです、だからこれがメタファーだと解す妥当性があるんです、という論述は最低限必要であろう。
最悪なのは突然、ここにこんなメタファーがあるんです!とのみ宣言するパターンだ。
突然アイディアをつきつけられた読み手は、はあ、そうですか、としかコメントしようがない。
口幅ったい言い方をすれば、そんな類の言説は読み手に対する敬意を欠いているとしか言いようがない。

ことメタファー話に限らず、何か新しいアイディアを発見して(若しくは、したつもりになって)言語化するという所業は、言わずもがなではあるがとてつもなく快い、のである。
「私だけが気付いた(編み出した)!」という慢心、そして「これに気付いた(編み出した)賢い私をアピールしたい」というスノッブな陶酔。
しかし、そのアイディアを尤もらしく小難しそうな語り口を隠れ蓑に「そのまま」語るのは自己満足、ひとりよがりに過ぎない。
折角の素敵な発見がひとりよがりで終わってしまうなんていかにも勿体無い。
そして、ブリリアントな発見は(大袈裟に言えば)人類共有の財産である。
なにか素敵なアイディアを思いつかれた皆様におかれては、是非それを支える論理を編み、説得力ある形でシェアして欲しい、と思うものである。
かように然るべき方法でシェアし、万人、とまでは言わずとも一定の人に当該アイディアが「論理的に」理解され感心されるところまで辿りつかしめることこそが真の快感ではなかろうか。

(余談終わり)

さてさて。
今回の劇のエンターテイメント的演出の目玉はなんといっても「血しぶき」であろう。
前述の通り、前列の人はまず窓口で「知ってるね?」と念を押される。
いざ入場すると、1列目の席には黒いビニールブルゾンが、2~4列目くらいまでには厚手の黒いTシャツがかかっている。
前方の布張りの座席にはどす黒い血の跡が一面についている。
(これ、後どう始末するんだろ?)
幕間にも勿論注意される。
私は敢えて浴びたかったので、ユニクロの白いシャツ1990円也を着て臨んだ。

最後のシーンで飛ぶ、と聞いていたのでてっきりリチャード殺害のシーンかと思いきや、腹心(だった)バッキンガム処刑のシーンだったのですね。
すぐ目の前にやってきて、ティレル(だったけな)がバッキンガムの頸動脈に手を当て、「やばっ」と思うや否やぶしゃーーーーーーっ(これくらいのボリューム感だった)と飛んできた。
これは多分、1列目より2~3列目の方がよくかかったように思う。
(日によるのかもしれないが)
服にかかるのは想定内だったが、頭にまでべっちゃりとついたのには少し閉口した。

肝心の白シャツの末路はこんな具合であった。



どこに出しても恥ずかしくない立派な惨劇の跡である。
周りの人からも「ひゃー(笑)」と驚きの笑いを頂いたことであった。

ただ、これ、家に帰って洗ったら完膚無きまでに落ちちゃったんである。
記念にしようと思っていたので少し、いやかなり残念だった。
しかしどんな成分の血糊だったんだろ?


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