先日、古代ローマヲタならみんな大好き(ですよね)サトクリフの小説『第九軍団のワシ』映画版を見た。
今日はこの映画の感想、いや雑感をうだうだと記していきたいとぞ思う。
とはいえどもこの小説、日本ではさほどメジャーではないと思われるので、大多数であろう御存知ない方のために少しあらすじを書いておきたい。
それは紀元2世紀はじめのこと。
ローマ属州ブリタニア(現イギリス)のエブラクム(現ヨーク)に駐屯していたローマの第九軍団が、未だ平定されていない北のカレドニア(現スコットランド)へと行軍したのち、ぷつりと消息を絶った。
そして、彼らと共に軍団が所有していたローマ軍の旗印、黄金(メッキだが)のワシも消え失せたのであった。
それから数年後、この第九軍団副司令官の息子が百人隊長としてブリタニアの地に着任した。
彼の名はマーカス・フラヴィウス・アクイラ。
(因みに彼のコグノーメン(家族名)、アクイラはラテン語でワシの意である)
幼いころから彼は、父の軍団の消息を探り当て汚名を漱ぎ、ワシを見つけ出し、更には第九軍団を復活させたいという夢を抱いていた。
ところがマーカスは自身の初戦となるブリテン人との戦いで善戦するも、足に怪我を負ってしまい、若くして軍を退役せざるを得なくなる。
失意のマーカスはブリタニアに隠遁している叔父アクイラの元に身を寄せるが、そこで件のワシが北の蛮地で祀られているという噂を聞く…
とまあこんな話である。
ご想像の通り、その後マーカスはブリテン人の奴隷(のちに従者)エスカとたったふたりで蛮地カレドニアに向かい、見事ワシを取り戻すことに成功するのである。
さて、本作映画の感想に戻ろう。
あの作品(岩波少年文庫446P)を2時間弱という尺で描く、という時点でどういうことになるのか、ということについては最初から或る程度覚悟はできていた。
故に、ゲド戦記映画版(名指し)を見たときの衝撃と比べればなんてことはなかった。
でもね、でもね…
映画としての出来は、それほどには悪くなかったと思う。
主人公のマーカスの役者さん(名前知らないごめんなさい)は正直少々力不足だったように思ったが、昔第九軍団の百人隊長で今は蛮族の一員となって生きるグアーン(ルシアス)役のつよしさんことマーク・ストロング氏に関しては、さほど出番がなかったとはいえやはり流石の迫力であった。
(そして、蛮族であるので髪の毛がふぁっさふぁさであったことも記しておこう)
絵の作りも終始トーンが暗く、原作の陰鬱とした雰囲気をよく伝えていたように思う
(褒めています念のため)
しかし、クライマックスシーンの改竄は、やはり原作ファンとしては大変衝撃的であった。
改竄とは些かきつい言葉だが、あのシーンに関しては改竄の他に評する言葉を知らない。
該当のシーンの概略は以下の通りだ。
即ち、蛮族からワシを奪還したのち(当然)追われるマーカスとエスカ、そしてワシを守るべく、グアーン他第九軍団のローマ兵の残党が集結し、追い手の蛮族集団をローマ軍の正装で(!)雄々しく迎え撃つのである。
思わず素で「嘘やろ」とひとりごちましたよあたしゃ。
ちらっと前述したが、原作小説では、ワシの奪還に成功したマーカスとエスカはその後たった二人きりで壮絶ともいうべき逃避行を続け、追っ手により色々危険な目に遭いつつもやっとのことでハドリアヌスの長城の内側、つまりローマ支配域に辿り着くのである。
エクス百人隊長のグアーンが逃げ道を案内する場面もあるが、それもほんの僅かである。
(余談だが、このときにマーカスは共にローマ世界に戻ろう!とグアーンを誘うのだが、グアーンはレテの水を飲んだものはもとの世界に戻れない、と断る。
レテとは、ギリシア神話に登場する冥界の河の一で「忘却の河」の意である。
死者は冥界に辿り着くとこの河の水を飲み、地上での生の記憶を忘れるという。
つまりグアーンは蛮族として生きていくことを選ぶのだ。
ローマ軍の鎧に身を包み、結果ローマの一兵として壮大な戦死を遂げる映画版グアーンとは正反対の行き方である)
つまり、小説版では華々しい会戦描写は一切なく、陰鬱なブリテンの地で延々と繰り広げられるこれまた陰鬱、且つ生死を賭けた追いかけっこがひたすら延々と描かれる。
確かに、スリルはあるが分かりやすい盛り上がりはない展開である。
ゆえに映画という媒体には向かないのはよーく分かる。
でもね。でもね…
この作品の大きなテーマのひとつは父子の代に跨る/ローマvs原住民の確執である。
確かに映画に於いて後者は、先に述べたように鮮やかに改竄され、気恥ずかしいほどに単純な対立軸として描かれている。
であるのに、同じくらい映画的に「美味しい」テーマとなったであろう父子代々の確執の描写が希薄、或いは所により皆無なのは何故か。
ワシを戦利品とし祀っていた北方の蛮族の一族「アザラシ族」。
その長は、マーカスの父のものであった緑の石の指輪を嵌めていた。
そして長の孫リアサンは、ワシを奪い返したマーカスの裏切りののち、最も執拗に彼を追い回す。
ここらへんをじっくり描けばドラマティックにもなったろうに、映画では長の出番は殆どなく、リアサンに至っては「族長の息子」としかクレジットになく、固有名すら出てこない。
(グレー版のヨンドゥ(@ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー)のようなビジュアルこそ印象的だが…)
ワシと同じくらい重要なアイテムの筈の指輪の因縁も殆ど語られない。
これまた尺の問題なのだろうが、やはりなんでまた重要なポイントであるこのシーンを削ったのか、との思いは終始拭えなかった。
さらに、マーカスとエスカが逃げるのを見過ごしたアザラシ族の少年を族長の息子(リアサン)が見せしめ?の為に2人の目の前で殺す、という原作にはないシーンがあったのだけど、正直必然性がなにひとつ感じられず後味の悪いエピソードであったといわざるを得ない。
それどころか、これは原作の精神を大いに、いや全く損ねるものであったと思う。
少年が殺されることに対して倫理的にどうだこうだと言っているのではない。
恐らく、このシーンは、蛮族はこれほどまでに蛮族らしく獰猛で野蛮でローマ(=現代の我々)の理解を超えた存在なのだぞ、ということを鑑賞者に伝えようとしたのだろうが、それは、ローマと蛮族を価値中立的に対峙させた原作に真っ向から反するものではなかっただろうか。
映画版では、あのシーンで蛮族の野蛮さを解りやすくあからさまに見せつけることで、蛮族は「悪い」という価値判断を観客に押しつけたように感じた。
対して文明的ローマ(マーカス)は「良く」、結果「良いものが勝利する」。
勧善懲悪。
このような単純化ほど、サトクリフの原作とかけ離れたものはない。
映画のロケーションやセットに関しては、予算の都合もあったのだろうが、ハドリアヌスの長城(壁)をもう少しリアルに描けていればよりリアリティを感じられたろうに、と思った。
あの関を越え蛮族の地に入るというということはローマ人にとってどういう意味があるのか、ということが今一つ解りづらかったのはまた残念であった。
(余談というか逸脱だが、ハドリアヌスの長城(壁)はラテン語でVallum Aeliumとなる。どっこもハドリアヌスの名前ないやん、と言われそうだが、Aeliumアエリウムはハドリアヌスの氏族名Aeliusの形容詞である。
個人的には壁VallumではなくLimes(境界=防御壁)の方がしっくりくるが、一般にこのリメスという語は現ドイツのリメス・ゲルマニクス(ローマの地とゲルマン地帯との防御壁)を示す固有名詞として捉えられるので、このブリタニアの防御壁に殊更に壁という語を用いるのにはなにかしら一理あるのだろう)
とまああまりけなしすぎるのも悪いので少し評価できるところも書いておくと、原作に出てくるブリテン人の少女をカットしたのはよかったと思う。
映画的な盛り上がりとして男女の絡みは美味しいだろうに、そこは潔くオミットしひたすら男臭い作品に仕上げたことには好感が持てた。
と、終盤にほんのちょっと持ち上げてはみたけれど、最後にどすんと落としてこの雑文を終えたい。
それは、マーカスが奴隷エスカを解放するタイミングについてである。
(文字通りの解放ではなく、奴隷から自由人にしてやることです。念のため)
映画版では、蛮族に追われ窮したマーカスが俺はもういいからお前はこのワシを持って逃げろ、とエスカに命じるも、彼は奴隷の身である以上ご主人の元は離れられませんと抗う。
そこでマーカスはではお前を自由民にしてやろう、と彼を解放するのである。
この展開もある意味感動的っちゃ感動的かもしれない。
でも小説では違う。
マーカスがエスカを解放するのは、ワシ奪還の旅に出かける前夜なのだ。
「こんな危険な旅の伴は奴隷には頼めない。しかし友人には頼める」
というマーカスに、エスカは
「私が今まであなたに仕えてきたのは奴隷としてではない。私はあなた(マーカス)に仕えたのです」
と答え、あくまで自由人として自由意思で以てマーカスに随伴するのである。
うおおおおおん
(書いてて泣けてきた)
奴隷とした買われた人間がこんな感動的な台詞を吐くことが綺麗事なのは百も承知だ。
でも、そう言われようとも、この主従二人の友情譚というのは本物語の中で終始通底して流れる非常に重要なテーマなのである。
いや、なんなら最も重要なテーマといっても過言ではない。
そして、この二人の友情を描くには、この壮大な冒険の「前に」二人が対等な関係にあること、つまりエスカが自由人であり彼が自らの意思でマーカスに付き従うという前提が非常に大事な意味を持つと思うのだがどうだろうか。
だのに、なんでまたよりによってこのエピソードを改変したのですか脚本家さんに監督さんよ。
映画的にも、バディ関係は対等な二人であるほうがより美味しいでしょうに。
(これ書いちゃうと身も蓋も無いけど)
とまあ、以上原作つきの映画を観た後によくある愚痴感想でした。
原作に沿ってさえすれば全て素晴らしい作品だというのでは、勿論ない。
けれど、この映画に関しては、何故ここを?と首を傾げるような原作の勘所を削ったり改変したりしている、という不満はどうしても否めなかった。
尺の長さや予算不足という映画特有の限界だけの問題ではない。
いつの日か再度ピージャク先生あたりが壮大な2部作に仕立て直してくださらんことを願って止まないのであった。
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