2014年4月17日木曜日

2.王政から共和政へ、そして戦いの日々

さて時は紀元前6世紀終盤。
ひとりの男が7代目ローマ王の座につきました。
その名はルキウス・タルクィニウス。綽名はスペルブス。
「傲慢な(尊大な)タルクィニウス」の意味です。
彼はその「タルクィニウス」というノーメン(氏族名)が指す通り、前述の初のエトルリア系の王、5代目タルクィニウス・プリスクスの息子でした。
しかし彼は父とは違い傲慢且つ野心的で、王となった後は先代の王の取り巻きをつぎつぎと亡き者にしたり、元老院をないがしろにしたりと残忍、且つ専制的に振る舞いました。

結果、彼は遠征の隙にローマを追放されるという憂き目に遭います。
この追放劇の結果、ローマは前記の王の諮問機関であった元老院、そしてここから選出される2名のコンスル、つまり執政官※3を中心とした政治制度=共和制に移行することになるのです。

※3 共和政初期に於いては、この公職の名は皆さんご存じの「コンスル」ではなく、「プラエトル」(法務官と訳されていますが、元々は「先を行くもの」くらいの意味を持ちます)であったとされています。
ですが便宜上、以後もお馴染みの「コンスル」で表記することにします。

ですが、王政の終焉がただひとり彼=タルクィニウス・スペルブスの悪行の故、というのは些か短絡的です。
そこには、「エトルリア系勢力=商人、財界人層」対「ローマ人、サビーニ人勢力=農民、地主層」という対立の構図がありました。
前述の通り、ローマは5代目以降エトルリアの王を擁く訳ですが、丁度これはローマの経済的・土木的発展と軌を一にしています。
つまり豊かな「商人王」、そしてその縁者たちの財力、手腕がローマの躍進に大きく貢献したのです。

しかしそれは、裕福なエトルリア人たちにローマが乗っ取られることを意味していました。
前述の「水平社会移動」なる風習は、国家やシステムに新陳代謝をもたらすという利点を有す一方、ネイティヴ=農民、地主層にとっては自分の国を牛耳られるという危険も孕むものでした。
という訳で土着のローマ人、サビーニ人の有力貴族(パトリキ)たちが危機感を覚えていたところ、タルクィニウスの息子が有力パトリキ家系出身の人妻を犯し、彼女が自害するというセンセーショナルな事件が起きます。
これに乗じたルキウス・ユニウス・ブルートゥス※4は元老院にこの非道を訴え、結果タルクィニウス、そして彼に繋がるエトルリア系勢力を追放することに成功したのでした。

※4 これだけを見るとブルートゥスは反エトルリア・土着パトリキであるように思えますが、実は彼はばりばりのエトルリア系(どころか、なんと追放された王、タルクィニウス・スペルブスの甥だったりします)なので話はややこしくなります。
また、前述の可哀想な人妻の夫、ルキウス・タルクィニウス・コラティヌスもまたエトルリア系(しかも「タルクィニウス」姓からも分かるように彼もまたスペルブスの遠縁でした)だったので、更に話はこんぐらがってきます。
結局この政体交代劇は、土着ローマ・サビーニ系パトリキ&彼等と親和性をもつエトルリア系勢力VS その他のエトルリア系勢力 の争いの結果であり、エトルリア勢の内紛に土着勢が乗じたのだとも言えそうです。
因みに、ブルートゥス、及びコラティヌスはこの功績故に初代の執政官に選ばれます。
悪王を打破した結果新たに誕生した執政官が、どちらもその王の血筋を引く人間だったというのは何やら皮肉なものです。

このように王政から共和政へと移行した新生ローマ共和国ですが、その後は政体の変更という大事件の後遺症とでもいうべき混乱に長く苦しめられることになります。

その元凶は、またしても先王タルクィニウス・スペルブスでした。
追放された王は、自らのルーツであるエトルリア勢力にローマを攻めるよう働きかけます。
まずはエトルリア系のウェイイ人とタルクィニイ人(この名前からしてタルクィニウスとの繋がりが連想されます)が呼び掛けに応じ、ローマとの戦いに挑みました。
ですが、ローマはこの猛攻をなんとか耐え忍び辛勝することができました。
この戦いで初代執政官であったブルートゥスは戦死します。
指揮官が命を落とす程の戦いですから、かなりの激しい戦闘が行われたことが察せられましょう。

次にタルクィニウスに呼応したのがエトルリア都市国家クルシウムの王、ポルセンナです。
彼が率いるエトルリア連合軍は進撃を続け、遂には総本山ローマにまで達し市を包囲してしまいました。
さあ新生ローマ共和国、いきなりの大ピンチです。

この包囲の際、ひとりのローマの若者がポルセンナを暗殺せんと敵の陣地に忍び込むという無謀な冒険を冒しました。
ですが彼、ムキウスは肝心の王の顔を知らず(!)間違えて従者を弑し、結果あっさりと捕まってしまいます。
王に直々に詰問された彼は開き直り、「眼中に大きな栄誉がある者たちは、いかに体を惜しまぬか、しかと悟れ!」※5と叫んで己の右手を火に突っ込むという訳の分からない暴挙に出ます。
王は大いに驚き、自分の配下であれば武勇を愛でるところだが、とりあえずもういいからお前帰れ、と彼を釈放したのでありました。
後代の書は、このエピソードをポルセンナがムキウスを敵ながらあっぱれと見た、というニュアンスで記していますが、個人的には、ポルセンナはローマの奴ってなんて野蛮人なんだ(当時ローマはエトルリアに比し後進国です)、ああいやだ気持ち悪い、こんな奴とっとと放してしまえ、と慌てて追い払ったと思えるのですが如何でしょうか。

※5 『ローマ建国史(上)』リウィウス、岩波書店より。

閑話休題。
つまり、後世用にかように無謀な若者の英雄譚の一つや二つを必要とする程には、結局ローマはエトルリア勢力、そしてポルセンナに完膚無きまでに叩きのめされたのでした。
かろうじてローマ「市(ウルプス)」は死守したものの、この時ローマは王政時に得たエトルリア地方の領地ほぼ全てを失ってしまいます。
再び王政最盛期の頃の勢力圏を取り戻すまでには、この後実に1世紀を待たねばなりません。

とまれ。
先王タルクィニウス・スペルブスはこれで漸く王の座に返り咲ける、とほくほくしていましたが、肝心のポルセンナはお前をローマの王につけるつもりはない、と冷たく言い放ち、ローマと講和条約を結びさっさと自分の国に帰ってしまいます。
タルクィニウスの失望や、察するに余りあります。

しかしながら、諦めの悪い彼は今度はローマ周辺の(ローマ人に非ざる)ラティウム人勢力を焚き付け、ふたたび戦を仕向けました。
これを第一次ラティウム戦争といいます。
(つまり、この後も近縁というべきラティウム人とローマの戦いは長く続くのです…)
第一次ラティウム戦争の中でいちばん激烈だった戦は「レギルス湖畔の戦い」と呼ばれます。
この戦いもまことに激しく、敵味方双方とも主要な人物に傷を負わぬ者はいなかったと語られるほどでしたが、なんとかローマは勝利を収めることができました。

さて、ここで遂に!我らがコリオレイナスが華々しく登場します。※6
とはいえ、このエピソードはシェイクスピアの『コリオレイナス』には書かれていません。
また、彼はまだこの頃はコリオレイナス(ラテン語読みではコリオラヌス)という名で呼ばれてはいません(当然ですね←これもネタバレ?)
彼の名はガイウス・マルキウスといいました。
ここではノーメン(氏族名)を拝借し、マルキウスと呼ぶことにします。

※6 『プルターク英雄伝』3巻(岩波書店)、「ガーユス・マルキウス・コリオラーヌス伝」(以下「コリオラーヌス伝」)、2節より。
但し岩波版は現在絶版となっています。
ちくまで抄訳版が出ていますが、その中にはコリオレイナス(コリオラヌス)の話は入っていないようです。

レギルス湖畔の戦いは若きマルキウスの初陣でした。
ですがその戦いぶりは勇猛を極め、あまつさえ倒れた同胞を庇い守りつつ戦闘する、というなかなかに困難なことをやってのけました。
戦ののち、彼は盾でローマ市民を護った勇者に贈られる槲(かしわ)の冠を授けられたと伝えられています。

3.有力貴族(パトリキ)と平民(プレプス)の飽くなき確執ーコリオレイナス前夜

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