王政から共和政への移行。
と聞けば、後世の私達は民主主義の勝利だとか、少なくとも人民はより多くの権利や利益を享受できるようになるのだと思いがちです。
当時のローマ平民(プレプス)もそう思ったようで、新しい体制を大変熱狂的に迎え入れたといいます。
ですが、その実は全く違いました。
前述の通り、王はエトルリア系=財界人、経済人(経営者)であったので、王と共にこれらの人々が去った結果、途端にローマは不況に陥ってしまいます。
また、新制度に於ける政治の指導者、執政官(コンスル)の任期はわずか1年しかなく、継続的な大事業、例えば大規模な土木工事や都市計画を進めることができなくなってしまいました。
慌てた新政権は引締め政策を敢行しますが(お金がない政権が取り得るただ一つの手段ですね)、更に不況状態を悪化させることとなってしまいます。
話が違うじゃないか。
結局王と貴族(パトリキ)が入れ替わっただけで俺たちの暮らしはちっとも楽にならない。
いや、寧ろ王様の頃より悪くなっているんじゃないか?
という平民の怒りが爆発する寸前だったときに起こったのが、前述ポルセンナとの戦いでした。
ローマ市を包囲されるという緊急事態時に、貴族と平民がいがみあっている暇はありません。
貴族たち=元老院議員は慌てて、食糧を安定的に供給させたり、塩を公の専売制にしたり(それまで塩の販売は富裕層が独占し高利を貪っていました)税金を免除したり、と立て続けに平民を慰撫する施策をとり、なんとか彼等を納得させ戦いに赴かせました。
しかしこれも焼け石に水。
先に述べたマルキウス=コリオレイナスのデビュー戦を含む第一次ラティウム戦争末期には、平民は疲弊しきっていました。
ひとたび戦争に駆り出されれば、必要な武器、そして兵糧ですら全て自弁せねばなりません。
ぼろぼろになってやっとのことで家に帰り着くと、土地は敵に奪われているわ、不在中妻子を養うために重ねた借財が残っているわ、その借財を返せねば下手すると奴隷に身を落とさねばならないわ、等という散々な末路が待ち受けていたのです。
…冗談じゃない。
祖国を守る戦いに身を投じた結果が奴隷なのか。
借金を棒引きにしろ。
平民の権利を代弁する公職を設けろ。
平民たちはこのように抗議しましたが、元老院議員は言を左右にするばかりで具体的な施策をとろうとはしませんでした。
このときの執政官はアッピウス・クラウディウスとプブリウス・セルウィリスという名の2人の貴族でした。
うちの1人、クラウディウスの名を覚えていらっしゃるでしょうか。
そう、彼は氏族5千人を率いローマに移住したサビーニ人貴族、アッピウス・クラウディウス・サビヌスその人だったのです。
クラウディウス家は、この時既にローマ政治において少なからぬ影響力を持つに至っていました。
その家父長、執政官クラウディウスは貴族の誇り高き、しかし傲慢な人間でした。
彼は平民を蛇蝎の如く嫌っており、借金の棒引きなど奴らを甘やかす元だ、絶対に許してはならないと考えていました。※7
翻って同僚のセルウィリスは彼よりも穏健派でしたが、平民を軽視していることは同じで、まあ奴らの矛先をうまく他に向ければなんとか丸く収まるのでないの、と楽観視していました。
※7 ここまで彼が平民をないがしろにできたのは、前述の氏族5千人がそのまま彼の支持者となったので、人気取りのため殊更に平民たちのご機嫌をとる必要がなかったからだと考えられます。
ところがその時、再びローマに敵が攻め入ってきました。
今度の敵はウォルスキ人。
近郊に住む手強い部族です。
すわ大変、と元老院は戦力を動員しようとしますが、不満でいっぱいの平民は動こうとしません。
執政官セルウィリスは元老院の頼みを受け平民を説得しましたが、その際兵役に就いたローマ市民は借財のために拘束されることは今後ない、という約束をします。
言質を得た平民は大喜びで戦役に向かい、たちまちウォルスキ人、そして尻馬に乗って攻めてきた周辺の部族、サビーニ人にアウルンキ人をも蹴散らしてしまいました。
さあ約束を守ってもらおう、と意気揚々とローマに帰ってきた彼等を待ち受けていたのはもう一人の執政官、クラウディウスでした。
彼は同僚セルウィウスの言を実行するどころか、債権者達にますます苛烈に借財返済をなすように仕向け、戦の功労者は皆たちまち奴隷となったり拘禁されたりされました。
これではあんまりだ、と平民は徒党を組み公然と陰謀を口にするようになり、時には債権者たちを襲撃するに至りました。
ローマ市に不穏な空気が漂い始めたころ、またもや敵来襲の知らせがやってきました。
妥協策として元老院は非常事態を宣言し、2人の執政官の代わりに1人の独裁官(ディクタトール)を立て、平民に人気があり穏健派と評判のウァレリウスを選出しました。
彼の元でローマ平民はまたしても勇猛に戦い、またしても敵を退けます。
ウァレリウスはローマに戻った後、元老院に平民のための審議をするように求めますが、勝利に驕った貴族達はこれを拒否し、彼は怒りのうちに独裁官職を去ります。
これでひとまずはお茶を濁せた、一件落着、と胸をなで下ろしていた貴族達の元に届いたのは、先に退けた筈のウォルスキ人再来襲す、との凶報でした。
元老院は慌てて兵を招集しようとしますが、度重なる裏切りに業を煮やした平民は、流石にもうその呼びかけに耳を傾けることはありませんでした。
彼等はローマ市を去り、北東にある聖山(モンテ・サクロ)に立て籠もります。
敵は迫り来るも迎え撃つ兵士はいない状態で万策尽きた元老院は、平民を説得させるべく同じ平民出身のアグリッパ・メネニウス(英語読みではメニーニアス)を使者として聖山に使わせます。
メネニウスは平民に有名な腹と手足の話(腹がなければ手足にも栄養が行き届かず、結局共倒れになってしまうのだという説話)をし、一時は彼等を宥めることに成功します。
(このエピソードはシェイクスピア『コリオレイナス』の冒頭にも出てきますね)
ですが勿論そんな「お話」では納得、妥協するには至らず、平民達は交渉の末結局以下のような権利を手にすることとなります。
・ 護民官(トリブーヌス・プレービス)の設置
文字通り平民の代表として、平民会※8により2名(後に増員)選出される公職です。
選出資格は平民であること。
元老院決定、そして執政官をはじめとする公職者の決定をも拒否することができる「拒
否権」(ヴェトーVETO。その言葉は現在の国連でも健在です)という強大な権能があります。
・ 借金棒引き
・ 債務奴隷の平民は解放
さて目出度く色々な要求が叶った平民は山を下り、ローマは一丸となりウォルスキ人討伐に乗り出します。
快進撃を続けるローマ軍は遂にウォルスキ人の町、コリオリに到達するのですが…
ここから、やっと『コリオレイナス』の物語が始まるのです。
※8 平民会と民会は違います。
ここでちょっと寄り道して、「民会」についてお話をしたいと思います。
民会は元老院と並び、古代ローマ共和政の政治機関の一つです。
「民」会という名から平民の集団とも思われそうですが、貴族をも含んだ意志決定機関です。
民会には以下の3種があるとされます。
・クリア民会
この民会についてはよく分かっていません。
氏族(一族郎党、くらいのイメージです)毎に構成され、氏族内の問題などが生じた際に構成員が参集していたという説があります。
・ケントゥリア民会
「ケントゥリア」とはローマ軍の単位のことです。
ローマ軍は、個々人を各人が保有する財産によって6つの等級に分け、それぞれの等級毎にケントゥリア=100人隊(必ずしもきっちり100人いるわけではありません。後述)に振り分けるというシステムを取っていました。
ですがその分け方は公平ではなく、貴族、他富裕層の組が全193組のうち実に98組を占めていたといいます。
(つまり貴族組の1組当たりの人数は少なく、平民組は多かった訳ですね)
投票権は1組に1票ずつしか与えられていなかったので、票決の際には当然貴族組が有利となるわけです。
また、投票は貴族・富裕層組から行われ、いずれかに過半数の票が入ったところで打ち切られるという仕組みでした。
この点においても貴族組が有利でした。
・トリブス民会(平民会)
平民会と雖も、その中には貴族も含まれています。
トリブスとはもともと「部族」の意味ですが、ローマ市内の土地を21群(のちに段階的に35群に増加)に区分けし、それぞれの群が1票をもつものとして票決が行われる、という仕組みになっていました。
現在でいう「選挙区制」です。
コリオレイナスの頃には、トリブス民会にはまだ民会としての権能はなく(つまりその決定は法的拘束力を持たず)、前述の通り件の「聖山事件」の時に護民官(トリブス)の選出権が定められた程度でした。
トリブス民会が正式に国政の政治意志決定機関としての民会として認められるまでには、貴族と平民の身分闘争を経て、約200年後に制定されるホルテンシウス法を待たねばなりません。
ざっくりと言うと、ケントゥリア民会決議は貴族に有利、トリブス民会決議は平民に有利という傾向がありました。
(成り立ちを見ればお分かり頂けるかと思います)
例えば、『プルターク英雄伝』の「ガーユス・マルキウス・コリオラーヌス伝」には、執政官(コンスル)選挙に敗れた後やけをおこして?すったもんだを起こしたコリオレイナスが裁判にかけられた際、護民官(平民の味方ですので当然コリオレイナスの敵です)はケントゥリア民会ではなく、より平民の意が反映されるトリブス民会で評決されるべき、と主張し、結局容れられた、という記述が見えます。
(でもこれはおかしいですね。先程も書いたとおり、この頃のトリブス民会にはまだそんな権能はないのですから。プルタルコス先生もつい筆が滑ったのでしょうか)
→4.コリオレイナスの平民嫌い/平民のコリオレイナス嫌い についての一考察
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