2014年4月14日月曜日

1.伝説から王政時代へー古代ローマの黎明期

ローマ人の起源を巡る伝説は、実に煌びやかです。
彼らの祖はトロイア戦争で敗北したトロイア人、アエネアスとされますが、実は彼はアプロディテ(ウェヌス=ヴィーナス。かの有名な美の女神です)の息子(!)だったとされるので、即ちローマ人には恐れ多くもギリシャ神、しかも超一流の知名度を誇る女神の血が流れているという訳です。
それだけではなく、ローマ建国の父、ロムルスとレムスはこのアエネアスの子孫である王女と軍神マルス(アレス)の間の子であったといいますから、神の血統レヴェル(?)は申し分ありません。

とは雖も、勿論、彼らはアプロディテの末裔でも軍神マルスの直系子孫でもありません。
その正体は、紀元前8世紀頃にテヴェレ川沿いの7つの丘に住み着いたラティウム(イタリア中部)人の単なる一団に過ぎなかった、と考えられています。
恐らくラティウム地方のはみだし者集団だったのでは、等という想像も働きますが、如何せん文献もその他の史料もない時代のこと、真相は杳として知れません。

とまれ後世の伝承に沿って話を進めますと、弟レムスと争い勝利し初代の王となったロムルスを筆頭に、ローマには以後6人の王が即位しました。
この時期を王政時代といいます。(そのままですが)
王を擁くとなれば既に洋々たる国家であったかのようにも思えますが、王政の頃のローマ版図といえば、現在のローマ市程度のちっぽけなものでありました。
人口を見ても、10万人前後(王政末期~共和政初期の推定)と現在の地方小都市レヴェルの域を出ません。
当時のイタリア半島には、先達且つ先進のエトルリア都市国家、出自は大差なくともローマ「一団」とは袂を分かつラティウム都市国家、そして山岳民族がうようよと犇めいており、謂わば群雄割拠の様を呈しておりました。
神聖、ではなく新生ローマ王国は、末期にこそラティウム地方の覇権を得ますが、基本的には周囲の民と戦いに明け暮れる一都市国家に過ぎませんでした。

また、この時期の王は王とは雖も、後代のローマ皇帝、また絶対王政時のルイ14世のような強大な権力を握っている訳ではありません。
例えば、ひとたび即位すれば王は死ぬまで王でしたが(終身制)、子にその地位を引継ぐこと、即ち世襲は認められていませんでした。
(但し後期になると強権的に振る舞い、世襲制を強いようとする王も出現します)
王政初期には、ローマ人とサビーニ人(ローマに参入した近郊の部族)のなかから交互に王を選ぶ、などといったことも行われていたようです。

「王」以外の統治システムについては、少なくともこの王政期に後にローマを支える根幹となる「元老院」「民会」が既に成立していたとされます。
(伝承では、初代ロムルスがこの両システムを創り上げたとされています)
元老院は有力貴族(パトリキ)の家父長から成る集合体でしたが、王政の頃はまだ王の諮問機関に過ぎませんでした。
民会はローマ市民権(この時期にはその内容は曖昧ですが)を持つもの、つまり上記パトリキと平民(プレプス)※1で構成された合議体の単位です。
(民会の単位の区分けは3種類ほどありますが、その違いについては後述します)
王政期に民会が具体的にどのような事柄を決定していたかについては不明な点が多いですが、王の即位には民会の承認が必要であったことなどから、それなりの権限を有していたと考えられます。

※1「プレ『ブ』ス」との表記が多数ですが、正しくは「プレ『プ』ス」です。

また、後代の私達には奇妙にも思えますが、この時代、ラティウムの地にはある国の有力者が実にあっさりとよその国に移住してしまい、またその国も彼らをあっさり有力者として迎え入れるという風潮?がありました。※2
爾来来る者拒まず鷹揚に市民権を与える、というのは古代ローマ独特の美風であるイメージですが、当時に於いてはローマに限らずさほど珍しいことではなかったようです。
例えば、ローマ5代目の王、ルキウス・タルクィニウス・プリスクスは元々エトルリアの有力者でした。
彼がローマに居を移し、程なくして王に選ばれていることからもこの水平移動のあり方の一端が伺えます。
そのほかにも、共和政初期に、アッピウス・クラウディウス・サビヌスという、前述サビーニ人の貴族も氏族なんと5千人!を率いてローマに移住するという事例があります。
以後、クラウディウス家はそのマンパワーと財力で名門貴族(パトリキ)の地位を揺るがぬものとします。
(このクラウディウスというノーメン(氏族名)はのちほど出てきますので頭の片隅において頂ければ幸いです)

※2 『Oxford Classical Dictionary(fourth edition)』では、「Horizontal social mobility 社会的水平移動」という言葉を用い、かような現象はアルカイック期のイタリア中部の特徴であったとしています。

2.王政から共和政へ、そして戦いの日々

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