鑑賞前には欠片もネタバレは見たくないわ、という方におかれましては、ご鑑賞後に一読頂けましたら幸いです。
『コリオレイナス』を読了した皆様におかれては、コリオレイナスの異常なまでの「平民嫌い」が強く印象に残った、という方が多いのではないかと思います。
何故彼はそこまで平民を忌み嫌い、蔑んだのでしょうか。
また、平民も何故、一時は諸手を挙げて迎えた彼をかくも凄まじく憎み退けたのでしょうか。
ここまで拙稿を読んで頂いた方々には、彼の時代、貴族と平民が激しく渡り合っていた状況をご理解頂けたと思います。
その原因は、平たくいうとドラスティックな政治システムの変更(王政→共和政)による経済人・富裕層の流出、対エトルリア戦での失地、その他の部族との戦いにより嵩む戦費等により、ローマ全体が貧しくなり貴族と平民が相食むパイが縮小した、ということに尽きます。
貴族は平民に対し、俺たちは共同体「ローマ」を維持するという崇高な理念に身を投じ(もちろん飢えぬ程度にとはいえ)耐えているのに、あいつらときたらこの大変な時期にやれ借金棒引きにしてくれだの、穀物や土地をよこせだのと利己主義も甚だしいではないか、と平民を蔑みます。
翻って平民は、これほどまでに戦にリソースをとられているのにその間収入はなく、やむなく金を借りても返せぬならば即刻奴隷に身を落とすなんて理不尽もいいところではないか、と貴族を恨みます。
謂わば形而上と形而下の争いです。
とはいえ、後世の私達から見ればこれはどうしたって平民側に理があるように思えます。
恐らく貴族たちも少なからず、形而上的「ローマ」というよりどころを以て平民に無理を強いる欺瞞を感じていたでしょうが、一方前述のアッピウス・クラウディウスのように、平民がぎゃあぎゃあ騒ぐのは貧窮のせいではなく放埓のせいだ、だからもっと苛烈に律せねばならない、などと本気で信じている貴族も多く、両者の溝は深まるばかりでした。
コリオレイナスは、この両者のいがみ合いが苛烈を極めた頃に登場します。
彼の言動はそれこそ極右派?のアッピウス・クラウディウスそっくりで、同僚貴族でさえお前それは少し言い過ぎではないか、と咎めるほどに平民を激烈に罵ります。
しかし、クラウディウスにはバックの氏族5千人のおかげで政治的立場が安定しており、平民の評判なぞ頓着する必要はなかった、というのは先にお話しした通りです。
一方コリオレイナスにはウォルスキ人の町、コリオリを陥落させたという武勲こそありましたが、ひとたび平民の支持が得られなければたちまち失脚するほどの脆弱な立場にありました。
そんな危険を冒してまで何故、彼は平民を唾棄し徹底的に嫌ったのでしょうか。
彼は貴族(パトリキ)の出ではあるとされています※9が、幼いころに父親を亡くします。
その故にいっそう母親を敬愛し、のちに結婚してからも一緒に暮らしました。
母の誇りとなるべく、また(ここからは推測ですが)「だから片親の子は」などと陰口を叩かれ母を傷つけぬように、彼は幼少から自発的に身体を鍛えました。
生来恵まれていた戦闘の才能は、この鍛錬により見事に開花します。
当時のローマで片親の子として生きることがどれほど不利益だったのかは分かりませんが、少なくとも現在よりも何かとハンディが多かったように思います。※10
コリオレイナス少年(当時はガイウス少年ですが)は、その境遇から早い時期に恃みになるものは己だけ、という覚悟を決めざるを得なかったのでしょう。
※9 「とされている」と留保したことに関しては後述します。
※10 『プルターク英雄伝』の彼の節には、「…(コリオレイナスは)孤児というものにはいろいろ不幸な事があるが、多くの人々を凌いで立派な人間になるための妨げにはならず、詰まらない人間が孤児の身分は閑却されるために子供を能無しにさせるといって非難するのは間違っているということを示した」(「ガーユス・マルキウス・コリオラーヌス伝」(以下「コリオラーヌス伝」)、1節)とあり、当時も孤児だというだけで偏見をもつ風潮があったことを示唆しています。
戦乱の続く当時、功をなし名を上げるに一番確実だったのは、武勲を上げることでした。
前述の通り彼は華々しいデビュー戦を飾り、その後もローマの為に勇猛に戦い続けます。
また、彼は勝利を重ねても驕ることなく、常にストイックな戦士でありつづけました。
プルタークは彼を評する一節でこのような記述をしています。
若い人の名声というものは(中略)根強い頑固な気位を具えているものに対しては、その受取る尊敬のしるしがそれを助長させ発揮させて、風を受けて煽られるように外面的な光栄に向かわせるものだと考えられる。
そういう人々はこれを褒美としては受取らず、抵当に与えたような気になって、一旦得た名声に及ばなくなったり自分たちの功績を凌ぐことができなかったりするのを恥とするようになる。
(同上「コリオラーヌス伝」、1節)
かように努力の人、ストイックの人であるコリオレイナスにとって、平民たちは身勝手な要求ばかりする碌でなし揃いである、と映ったことは想像に難くありません。
気性が激しく怒りが制御できない※11彼は、平民が祖国存亡の危機に行ったストライキ(前述の「聖山事件」です)の際には恐らく怒り狂ったことでしょう。
※11同上「コリオラーヌス伝」、1節。
しかし、本当にそれだけでしょうか。
今回拙稿を書く際に『Oxford Classical Dictionary』のコリオレイナス箇所を参考にしたのですが、そこに気になる記述がありました。
公職者リストにはコリオラヌスの名はない。
リウィウス(『ローマ建国史』の著者)は(話の要請上)彼を貴族(パトリキ)だとしているが、歴史時代ではマルキウス氏族は平民(プレプス)である。
(意訳)
つまり、彼はもともと貴族ですらなかったのではないか、ということです。
貴族でなくば、彼に関するおはなし(『英雄伝』も、『コリオレイナス』も)の前提ががらがらと崩れることになってしまいます。
平民は執政官には(事実上)なれませんし、戦争で指揮も執ることもできません。
ですが、仮にコリオレイナスが平民だったと考えてみましょう。
そうすれば、彼の異様なまでの名誉欲、高貴であろうとする努力、称賛を抵当と感じるほどのプレッシャーはすべて上流階級=貴族へ上り詰めるための執念の故であった、となり実に収まりよく説明がつけられそうです。
確かに、彼のバランスを欠いた極端な性格は、生まれつき洗練された貴族のものではなく、ハングリー精神豊かでひたすらがつがつした平民のそれである、とすればしっくりくるように思います。
(ステロタイプへの容易な当て嵌めだ、という謗りは受けましょうが)
平民嫌いは、努力せざる同類を相憎むという屈折した感情と、己を出自から峻別するための意識的、且つ極端な反撥の表れであったと考えれば納得がいきましょう。
次に、平民のコリオレイナス嫌いについて考えてみます。
そりゃそうだ、幾ら武勲の誉れ高いヒーローであっても、あれだけ罵倒の言葉を浴びせかけられたら反撥して嫌いもするよ、というのは尤もなのですが、どうもそれだけではないように思えます。
再三述べておりますが、当時のローマは王が追放され共和政になりたてほやほやの時期です。
最後の王、タルクィニウス・スペルブス(尊大なタルクィニウス)の記憶は未だ人々の記憶に生々と残っていました。
(それもその筈です。この時期の外部との戦争は、殆どがローマを追放された彼の仕向けたものだったのですから)
平民サイドと指導層、元老院(貴族)サイドとは確かに折り合いが悪く、前章の通り揉めてばかりでしたが、ただ一つ王政に戻してはならないという一点だけでは両者は合致していました。
そこに現れたのが申し分のない英雄、コリオレイナスです。
平民は最初彼を熱狂的に迎え入れますが、彼の強硬的な態度、言動を見聞きするうち、こいつはひょっとしたら王になりたいのではないか、という疑念を懐いたのではないでしょうか。
コリオレイナスの「失脚」は、彼自身の平民への侮蔑的な態度に加え、平民の(そして、恐らく一定数の貴族の)王政へのアレルギーも大きく影響しているように思います。
→5.コリオラヌスに見る古代ローマの「美徳」−ウィルトゥスとピエタス
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